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涙なしには聞けない意見陳述でした。

3月13日の議会の総務常任委員会における請願審議の際の意見陳述が心打たれるものだったこと、昨日このブログで、お伝えしたところですが、この請願【令和2年請願第4号 新設の平和モニュメントに「核兵器廃絶・平和都市宣言」を明記し広く市民へ周知することについて】の直前に行われた【令和2年請願第3号核兵器禁止条約の署名及び批准を求める意見書の提出について】での意見陳述には、涙を抑えることが出来ませんでした。双方のこの心打たれる意見陳述は、数日後には議会の中継録画で御覧になれるものの、少しでも早くお伝えしたく、陳述なさったかたにお頼みし、読み上げた原稿を寄せていただきました。有難うございました。

どうか、御覧ください。

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(陳述書)あの日の想い

私は市内西浦賀に住んでいる後藤葉子と申します。広島出身の被爆者です。

広島・長崎に核爆弾が投下されて、早七十五年目を迎えようとしています。

年月は流れても、五才の時の体験経験は、一生私の脳裏から離れる事はなく、黄泉の国迄ついてくることでしょう。当時五人姉妹の私達は、被服廠に行っていた姉を除く四人で留守番をしていました。

いつもの様に父は早朝に宇品造船に働きに、母は食料の買い出しに、瀬戸内の島に母の姉妹達と舟で出かけました。二、三日前から母の友人が京都から、夏休みと称して遊びに来ていました。そのおばも母を追うように、市内の友人に京土産の五色豆と八ツ橋を持って、「夕方には戻ってくるからね!!」と言って出かけました。残った子供達は、母がオヤツ代として置いていったお小遣いで、近所のアイスクリーム屋でアイスを買ってきました。それを銘々皿に一つずつ取り分けて、「サアいただきます。」と言った瞬間、我が家の前にある山や畑すべてが透けて見える様な光が「シャー」と音を立てながら光り、ユラユラと揺れて「ドカーン」と物凄い音がした途端家が揺れ、便所(トイレ)に通じる廊下は落ち、私達は右往左往して、家の中を走り回り、押し入れの中や納戸の中を逃げ回りました。暫くすると町内の警防団の人達が「警戒警報発令!!」とふれ回ってきて、「急いで防空壕に行くように!」とうながされ、すぐ近くの山の裾を掘った横穴があり、そこに避難しました。昼近くに母が帰って来て、家に入ると、アイスクリームが皿の上で泥饅頭のように真っ黒になってそのままの形でした。

その時母が話すには、「舟を出して沖合に差しかかるとB29が二機飛んで来た。『いつもはようけ(たくさん)来るのに、今日は二機じゃねー!!』と言っていたら、そのうちの一機が黒っぽい筒の様な物を落とした。『また何か降伏を呼び掛けるビラでも落としたんかね。』と言った瞬間、背中がピリッと熱くなり、舟が揺れ、飛行機が行った跡を見ると、大きな雲がモクモクと上るのが見えた。これは只事ではないと急いで舟を回して帰路についた。舟を岸に着け浜に上がると、町の方から逃げ帰って来る人、人、人で、いつもは閑散としているのどかな浜辺が人であふれていた。その人々の異様な光景に驚き、子供達はと急いで防空壕に行き、皆の無事を確かめ胸をなで下ろした。それから父や被服廠に勤める姉の事が気になり、翌日から捜す事にした。」

姉はその夜遅くに帰ってきました。次の日、父の事を造船所に問い合わせると、「市内に大きな爆弾が落とされ、被害甚大で救護に向かっている」との事で、私達も父を捜しに行くことにしました。

七日の早朝に、母は妹を背負い私の手を引き、五才上の姉と四人で広陵の所まで行く途中、引き込み線の上に止まっていた電車の中で、赤ちゃんを抱いたままお母さんが亡くなっていて、その前では広大生がつり革を持ったまま動かないでいました。

その引き込み線の上には何台かの電車が止まっていたが、中にいた人々は亡くなった人や怪我をした人ばかりで、私達にはどうする事も出来ず、そのまま線路に沿って、御幸橋の専売公社の所まで行きました。そこには死人か怪我人か、人形の様な大小様々な物体が一面に広がり、別世界の様な異様な光景に、母は「これは子供に見せられん」と思い、急いで引き返しました。子供達を家に置いて一人で父を捜しに向かいました。

七日の夕方、「市内の友人の所に京土産を持って行くからネ」と言って前日の早朝に出かけていった京都のおばが帰って来ました。腕は風呂敷に包んだ土産物を持ったままの形になって曲がっていました。着物の裾は破れ、下駄は無く裸足で「命からがら逃げて来た。」と泣きました。近くの医者も市内に駆り出されて居ないので、我が家で治療しました。赤チン、ヨードチンキ、ケロリンなど・・・。

数日経った頃、汽車が動いていると聞き、京都に帰って行きました。大怪我をして不自由な身体なので、長女がついて行きました。その姉は、「行儀作法、お茶、お裁縫の師匠として働いていた叔母の下で、十五才から二十才迄きびしく躾られた。」と言っていました。

また、近所に住んでいて私達をよく可愛がって呉れたおばさんが、隣町から峠を超えて這って帰って来た。両腕は泥と血で真っ黒になっていて、肘が白くなっていました。すり切れて骨が出ていたのだ。もんぺもズタズタになって膝も血だらけになって、壕の前まで来てホッとしたのか動かなくなった。皆で急いで壕に運び、近くの井戸から汲んで来た水で傷口を洗い流して赤チンで手当しました。

母は、父を何日も捜し回ったが見つからず、諦めかけた頃(一週間後くらい)に帰って来て、玄関に入った途端上がり框(がまち)にへタリ込んでグダグダになっていました。そのままそこで寝込み、何時間か経った頃にようやく起き上がり、市内で起きた事を話して呉れました。

六日の昼前に造船所から何台かのトラックに分乗して、八丁堀、福屋、広島城あたり迄救護に向かった。そこには大人子どもにかかわらず、死んでいる人、虫の息で「水」「助けて」と懇願する人もすぐに亡くなって、「ワシャ―たまらんかった。」と泣きました。常々「武士は人前で泣くもんじゃない」と言っていた父も、その時ばかりは「この世の地獄を見た。」と大いに泣きました。造船所からトラックで着いた所で大きな穴を掘り、亡くなった人を何体か入れ、重油をかけトタンをかけ、その上にまた遺体を並べ重油をかけと、何段か重ねて火をつけ、また次の穴を掘りと、繰り返して……

その後の父は、働きたくても身体は思う様に動かず、いわゆる原爆ブラブラ病になり、五十七才で、母も五十三才で亡くなりました。

たった一発の核爆弾で何十万人もの人が亡くなり、その倍の何十万、何百万のもの人が後遺症に苦しむことになりました。

その為の私達の願いは、戦争の放棄。核兵器廃絶を願う「ヒバクシャ国際署名」に、横須賀の市長である上地克明様、市議会議員の皆様、どうか率先して署名をして頂きたくお願いに参りました。

私達「ヒバクシャ」の心からの願いを理解し、賛成し署名して下さった全国の自治体の首長様の数は計り知れません。どうかこの平和都市「横須賀」からも率先して、平和に向かっての署名、心よりお願い致します。

日本政府に「核兵器禁止条約」して下さる様に、意見書を提出下さいます様、切にお願い申し上げます。

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なお、請願第3号と4号は、この日の採決では、所属している9議員中、賛成議員はひとりのみでした。

この委員会には日本共産党の議席がないため、審議や採決に加われなかったこと、とても残念でした。

が、18日の本会議で、また、請願に対する、私たちを含めすべての議員での討論が行われた後、議員全員(採決に加わらない議長を除いた39人)の態度表明が問われます。

私たちは今、18日に向けて賛成討論を準備しているところです。