日本共産党横須賀市議団

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トピックス
2020年3月14日

《平和モニュメント》撤去・新設にかかわる請願審査での、市民からの意見陳述は素晴らしいものでした。

3月14日

(きょう、3月14日の平和モニュメント=半分の高さまで解体されています)

2月19日

(2月19日の平和モニュメント=足場が組まれています)

2月9日2

(2月9日の平和モニュメント=この部分が3月14日の今日までに解体され、無くなっています)

 

モニュメント撤去工事が行われている最中の3月13日、議会では、総務常任委員会で、千人を超える署名とともに請願された代表者のかたから、素晴らしい意見陳述がなされました。

私たち日本共産党市議団は残念ながら、総務常任委員会に議席を持っておらず審議に加われないため、中継で聞いていました。

 

平和モニュメント撤去へ突き進む市のやり方だけではなく、市民の側にも反省すべき点があったのではないか、など、核兵器廃絶を願っての真摯な陳述に心打たれました。

陳述したかたにお願いし、読み上げた原稿を寄せていただきましたので、どうか、お読みください。

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私は、原水爆禁止横須賀市協議会の長野和範と申します。「新設の『平和モニュメント』に『核兵器廃絶・平和都市宣言』の文字の明記を求める請願」についての陳述を行います。

横須賀市は、1984年7月10日に「核兵器廃絶に関する決議」を市議会の全会一致で可決し、1989年5月23日には、当時の横山和夫市長が、「非核三原則」の遵守を強く求め、「あらゆる国の核兵器の廃絶」と世界の恒久平和を願う「核兵器廃絶・平和都市」宣言をしました。そして、平和思想の普及と意識の高揚を目的に、1992年に建設されたのが平和モニュメント「ヘーワ オーキク ナーレ」です。「核兵器廃絶・平和都市宣言」を行った横山市長は、広島の出身で、核兵器廃絶に向けて、なみなみならぬ思いを持っていらした方でした。

モニュメントの設計者は、1991年に行われた彫刻家10人による設計コンペで選ばれた、横須賀市出身で当時武蔵野美術大学教授を務めていた著名な彫刻家最上壽之(ひさゆき)さんです。「核兵器のない天上界(宇宙)と、われわれの住む地上の交流、対話のできる発信基地」を表したステンレス製モニュメントには、「核兵器廃絶」「平和都市」などの文字が刻まれています。また、建設の際には被爆者の方々をはじめ、数多くの市民から多額な寄付が寄せられました。

平和モニュメントは、市民からも愛されていました。ある小学校の先生からは、「図工の授業に、子ともたちを連れてよくスケッチに行った。」という話を伺いました。また、中央公園の近くにお住まいの方は、「散歩の度に、モニュメントをなでていた。」とおっしゃっていました。

しかし、平和モニュメントが設置からまだ27年しか経っていないのにも拘わらず、横須賀市は、老朽化により安全性に問題が生じたという理由から、2020年1月から解体撤去して、2020年度中に、恒久平和を訴えるコンセプトを維持する新たなモニュメントを設置することを決定しました。

昨年9月にタウンニュースの記事で、その後、朝日新聞や神奈川新聞の記事で、平和モニュメントの取り壊しと新設を知った私たちは、市議会での論議も参考にしつつ、市の対応を注視し続けてきました。

急激に老朽化が進んだことは、市も「維持管理の対応が遅れてしまった」と釈明しているように、維持管理を怠ってきた横須賀市には当然重大な責任があります。

しかし、旧軍港都市転換法第8条「旧軍港市の市長は、その市の住民の協力及び関係諸機関の援助により、平和産業港湾都市を完成することについて、不断の活動をしなければならない。2 旧軍港市の住民は、前項の市長の活動に協力しなければならない。」とあるように、私たち市民の側にも、モニュメント維持のための必要な努力をしてこなかった弱点がある事に気づき、大きな反省を迫られました。

モニュメントは、老朽化したから新しいものに造り替えればよいという性格のものではありません。毎年被爆地に向けて行われている平和行進の通し行進に何度も参加され、今までに30都道府県の平和モニュメントを見てきている方は、「こんなに大きな平和モニュメントは、広島・長崎以外にはない」と言っていました。つまり、平和モニュメント「ヘーワ オーキク ナーレ」は、広島の原爆慰霊碑や長崎の平和祈念像に匹敵する、立派な平和モニュメントなのです。例えば、長崎の平和祈念像が古くなったからといって、取り壊そうとするでしょうか。ヨコスカ平和美術展の事務局の方は、「アメリカの自由の女神が古くなったからといって、取り壊しにならない」と言っておられました。本来、平和モニュメントは修復し保存しなければいけないものなのです。それは、私たち横須賀市民の責務であったはずです。

また、平和モニュメント「ヘーワ オーキク ナーレ」は芸術作品としてとても価値の高い造形物であることを私たちは忘れてはなりません。制作者の最上壽之氏は、横須賀市出身で、県立横須賀高校、東京芸術大学を卒業し、長年武蔵野美術大学の教授を務めた世界的にも高名な彫刻家です。2001年 には紫綬褒章を、2009年には旭日小綬章を受賞されておられます。そして、「ヘイワ オーキク ナーレ」は横浜市のみなとみらい地区に設置されている「モクモク・ワクワク・ヨコハマ・ヨーヨー」とともに最上氏の代表作品として、国内外に広く知れわたっています。最上氏は横須賀市にとてもゆかりの深い彫刻家で、横須賀美術館開館前の2003年には横須賀市文化会館で「最上壽之展」が開催され、逝去された直後の2018年秋には横須賀美術館で作品が追悼展示されています。平和モニュメントのほか、1986年にも横須賀市の依頼で、「オープン ザ コスモ・ヨコスカ」を制作し、現在も児童公園に設置されています。

そのため、横須賀市在住の芸術家の方々からも、平和モニュメントの移設保存を求める要望書も出されています。

平和モニュメント「ヘイワ オーキク ナーレ」の解体撤去工事は、2月12日より開始されました。また横須賀市では、平和モニュメントは解体後、素材のステンレスなどを金属くずとして、市内の金属スクラップ業者に売却する決定をしました。これは、平和モニュメントの設置の趣旨や経緯、当時の横山市長や市会議員の方々をはじめ多くの横須賀市民の思いを踏みにじる行為であり、「ヘイワ オーキク ナーレ」の芸術的な価値を否定する暴挙であり、断じて許せる行為ではありません。横須賀市の見識が問われる行為でしょう。

私たちは、後世に禍根を残さないためにも、改めて平和モニュメントの移設保存を強く求めます。

また、全面保存が困難であるのならば、せめて平和モニュメントの一部(「核兵器廃絶・平和都市宣言」の文字のある部分)だけでも保存して頂きたいと強く要望し、要望書を提出しました。

横須賀市は、平和モニュメント「ヘーワ オーキク ナーレ」を解体撤去後に、新たなモニュメントを設置することを決定しました。

上地市長は「再整備にあたっては、『核兵器のない、平和の宿る天上界(宇宙)と、われわれ人間の住む地上とが対話のできるシンボル(発信基地)』として、制作された現在の平和モニュメントに込められた最上氏の思いを踏まえた上で、その精神を、次の世代に受け継ぐ『歴史・文化・平和をコンセプトとした公園』としたいと考えています。」「私は、戦争の悲惨さや平和の尊さを後世に引き継いでいくこと、そして、多くの先人たちの尊い犠牲の上に築かれている平和を守っていくこと。これらは、今を生きる私たちに課せられた使命であると考えています。」と述べておられます。

私たちは、横須賀市に対して、「核兵器廃絶・平和都市宣言」という明確な意思表示をし、最上氏の平和モニュメントに込めた精神を次の世代に受け継ぐことができるような、『核兵器廃絶・平和都市』に相応しい新しいモニュメントを建設すべきだという立場から申し入れを行いました。しかし、横須賀市からは「『核兵器廃絶・平和都市宣言』の文字を明記することはしない。」という回答を受け取りました。

市が、新モニュメント建設に当たって、コンペ前に業者に示した建設の趣旨には「平成元年5月23日に行われた「核兵器廃絶・平和都市宣言」の意思を内外に示し、平和思想の普及を平和に関する意識の高揚を図るため。」と書かれています。

そうであるならば、新しいモニュメントに「核兵器廃絶・平和都市宣言」の文字を明記することは当然必要なことであります。したがって、「核兵器廃絶・平和都市宣言」の文字を明記しないことは、コンペ前に業者に示した「建設の趣旨」に明らかに反しています。

そこで、1月から私たちは、新しいモニュメントに「核兵器廃絶・平和都市宣言」の文字を明記することを求める署名活動を行っています。市内在住の被爆者の方々をはじめ多くの方々が署名に協力して下さっております。現在1207筆に達しています。市外の方からも署名が寄せられていますが、これは、平和モニュメント「ヘイワ オーキク ナーレ」を取り壊すことが、横須賀市だけの問題にとどまらないことを示しています。

私たちは、「平成元年5月23日に行われた『核兵器廃絶・平和都市宣言』の意思を内外に示し、平和思想の普及を平和に関する意識の高揚を図るため。」という趣旨に基づいて、新たなモニュメントには、現在の「平和モニュメント」のように「核兵器廃絶」「平和都市」の文字を明記することを強く望みます。さらに「平和モニュメント」の存在と設置の趣旨を市民に広く周知することを強く望みます。

最後に、最上壽之氏がどのような思いを込めて、平和モニュメント「ヘイワ オーキク ナーレ」という作品を製作なさったのか、市議会議員の皆さま方にも知っていただきたいと思います。そこで、ご遺族である昌子夫人から教えていただいた、最上さんの彫刻家仲間の方が作られた詩を紹介します。最上さんの作品に込めた思いを分かりやすく伝えていますので、お聞きください。

ある祈念碑のメモリー   2019.10.10 第3稿(未完成のまま)/うめの

ある日戦争が終わった            

真っ暗だった港にも街にも明かりが点いた

間もなく進駐軍がやって来た

世の中がひっくり返った!

少年は一人岸辺に出て漂着の木をひろい 遊んだ

何日も漂着の木を組み 遊んだ

大人になった少年は彫刻家になった

ある日まちは丘の上に祈念碑をつくることにした

まちは彫刻家を提案者の一人に指名した

彫刻家は 終戦の岸辺で遊んだ日々が 創作の原点だ とよく言った

曲がりくねった太い木 細くまっすぐな木

出されたのは ちょうど2本の木が組まれた

不思議なバランスで 丘の上にビッグに立つ

高さ20メートル、ステンレス板で造る案だった

《ヘイワ オーキク ナーレ》少年の願いをそのまま案の名にした

まちは彫刻家の案を選んだ

選んだまちの人たちはみな少年と同じ願いをもった

27年経ったある日突然 まちは祈念碑の取り壊しを決めた

危なくなったという

ほーっておいたのに 新しい案を募るという

彫刻家はもういない

まちの灯火管制の真っ暗な夜を知る人は みな老いた

今後、彫刻家・最上壽之氏の作品について語られるとき、横浜の「モクモク・ワクワク・ヨコハマ・ヨーヨー」は現存しているが、横須賀市にあった平和モニュメント「ヘイワ オーキク ナーレ」は、横須賀市の管理の不手際により解体撤去されてしまったと記録されるわけです。横須賀市民としてとても恥ずかしく思います。

平和モニュメント「ヘーワ オーキク ナーレ」を大切にせず、わずか27年で修繕不能なほどの状態にしてしまったという事実は、横須賀市民全体が重く受け止めなければならないことだと思います。

市議会議員の皆様方には、横須賀市議会が全会一致で「核兵器廃絶・平和都市宣言」を採択した経緯と、平和モニュメント」設置の趣旨を顧みて、是非ともこの請願内容をご理解頂き、採択して頂きますよう強くお願いいたします。

以上をもちまして、私の陳述を終わります。ご清聴、ありがとうございました。

2020年3月13日    原水爆禁止横須賀市協議会 長野和範


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